史跡湯島聖堂,公益財団法人斯文会のホームページ

史跡湯島聖堂 聖堂の額・扁額

  • 史跡湯島聖堂
  • 史跡の全容
  • 大成殿に祀られているもの
  • 聖堂の額・扁額
  • 湯島聖堂略年表

江戸名所図会(左記)にあるように、大成殿は徳川綱吉、杏壇・入徳・仰高の諸門は持明院基軸の筆であった。しかし関東大震災により罹災、入徳門を除いてすべて消失。
聖堂復興に当っては、下記のように掛け替えられた。

高い位置にあって、なかなか見ることのできない額や扁額について紹介します。


大成殿

大成殿

額-伏見宮博恭王の筆(※元々は徳川綱吉の筆による。)

※博恭王(ひろやすおう 1875-1946)
明治から昭和時代前期の皇族、海軍軍人。斯文会初代総裁。
海軍将校としてドイツ海軍大学校を卒業後、艦隊勤務に就く。日露戦争時には戦艦三笠分隊長として出征し、黄海海戦で負傷。
のちにイギリスに中佐として駐在したあと、戦艦朝日・巡洋艦伊吹の艦長を経て大正2年将官に進む。
海軍大学校長、艦隊の司令官・司令長官を歴任して11年大将となり、東郷平八郎と並んで日本海軍の二大長老の地位に立つ。
昭和7年海軍軍令部長ついで元帥となり、海軍軍令部の改編により軍令部総長となって昭和16年4月まで務める


杏壇門

杏壇門

額-徳川家達公の筆(元、持明院基輔(藤原基輔)の筆。)

※徳川家達(とくがわいえさと 1863-1940)
明治から昭和時代前期の華族。公爵。徳川宗家大16代。斯文会第二代会長(大正11~昭和15)。幼名亀之助、号は静岳
文久3年(1863)田安家三男として江戸城内で生れる。明治元年朝旨により徳川宗家を相続。2年、静岡藩知事となるが廃藩置県によりこれを免ぜられる。
明治10年から15年まで英語留学、17年公爵を授けられる。
明治17年から昭和8年まで貴族院議長。この間、大正3年組閣の内命があったが、これを辞している。
大正10、11年のワシントン会議には加藤友三郎、幣原喜重郎とともに全権委員として出席。
済世会会、日本赤十字社社長、日米協会会長、華族会館議長などを務めた。昭和15年逝去。78歳。同年大勲位に叙せられ、菊花大綬章を授けられた。


入徳門

入徳門

額-藤原基輔の筆

※藤原基輔(ふじわらもとすけ 江戸中期の人)
持明院基輔と称す。藤原氏北家頼宗の流れ、中御門の諸流の持明院家の人。
持明院家は、藤原道長の子右大臣頼宗の孫基頼を祖とする。家名は基頼が邸内に建立した持仏堂を持明院と名付けたのに由来する。
室町時代末、持明院家の基春の時に世尊寺流の書を修め、以降能書を以て朝廷に仕えた。また、家業を神楽・鷹匠を有する
江戸時代、家禄二百石を給せられ、基輔は宝永年間には前参議正三位として朝廷にあった。


仰高門

仰高門

額-徳川圀順公爵の筆(元、持明院基輔(藤原基輔)の筆。)

※徳川圀順(とくがわくにつぐ 1886-1969)
明治から昭和時代前期の華族。公爵。水戸徳川家第13代当主。
斯文会第3代会長(昭和15~昭和20)。陸軍少将として終戦を迎える。
日本赤十字社副社長などを務める。


ページの先頭へ戻る

史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会