史跡湯島聖堂,公益財団法人斯文会のホームページ

伝統行事

神農祭

 湯島聖堂では、毎年勤労感謝の日に斯文会の主催、神農奉賛会の協賛のもと、神農祭を行っております。 神農は、古代中国の伝説上の帝王である三皇のひとりであり、中国古典籍によると、初めて農具を作り、人民に農耕を教えたといいます。また、人民が病気で苦しんでいるのをみて、医薬をもつくり、農作物と他の物品との交換、交易を教えたともいいます。日本では江戸時代から医薬の始祖として東洋医学者の尊崇を集めてきましたが、交易の神として商業に携わる人々の間で商業神としても各地に祀られています。 湯島聖堂の神農像は長らく大和東大寺の学僧奝然が寛和三年(987)に中国より持ち帰ったものと伝えられていましたが、昭和五十九年の斯文会及び矢数道明北里研究所付属東洋医学総合研究所名誉所長の調査により、像の背扉が開かれたところ、徳川三代将軍家光の発願により雑司が谷の薬苑主山下宗琢が製作し、直接の作者は明石清左衛門藤原真信であり、寛永十七年(1640)にこれを薬苑に安置する、との記録が見つかりました。薬苑、宗琢については史実に明らかなるも、作者については依然確証が得られていませんが、神農刻像は家光発願のものということで間違いなさそうです。  徳川五代将軍綱吉によって創設された湯島聖堂内に新設された神農廟に移された神農像ですが、その後家斉の時代には医学館に遷座し、明治維新を迎えました。維新後新政府の官物として農商務省博物局に陳列されたため、これを憂えた東宮侍医温知社代表浅田宗伯のもとに引き取られたのですが、温知社の解散、関東大震災による神農祀堂の崩壊により、宗伯の高弟木村博昭の手に渡ります。しかし、昭和十七年、木村家を嗣いだ木村長久氏も太平洋戦争で軍医として召集されます。その際、元の廟所である聖堂に戻す事がもっとも所を得たものとして、戦争末期の昭和十八年、150年ぶりに神農像は聖堂に遷座しました。 戦後、神農祭は昭和二十八年、斯文会と神農奉賛会の前身である神農史蹟礼賛会の協賛により復活し、現在も聖堂三大行事の一つとして続いております。平成十七年度は昭和二十八年を第一回とすると、ちょうど第五十一回神農祭ということになります。

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午後12時過ぎより聖堂内斯文会館前にて受付が始まりました。

斯文会館横より、神農廟へ向かう入り口です。

用意の整った神農廟の様子です。


神田神社神職、祭主、参会者着席ののち、司会者田部井文雄斯文会常務理事によって開式が宣言され、まず神職による修祓が行われます。


神職が神農廟の中に入り、奠饌をおこないます。

同じく廟の中で、祝詞奏上がおこなわれわれます。

祭主、石川忠久斯文会理事長により、祭文が奉読されます。


続いて玉串奉奠が、最初に神田神社神職によって行われ、祭主、来賓の方々と続きます。


神職よる撤饌がおこなわれ、閉式となります。


最後に一般参加者の方々も、神農廟内に入って、拝礼されました。

神農廟の内部、神農像の様子です。


午後2時からは、斯文会館講堂において、医療法人恵光会原病院会長・福岡大学講師・原敬二郎先生による「神農本草経上品に見られる久服の意義とアンチェイジング医学との相関」と題する講演が行われました。前田豊斯文会常務理事の開会の辞より始まりました。

原先生がご持参なさった品2点(神農画像と博多人形)を紹介され、事前に聴講者に配られた資料をもとに「神農本草経」について話をはじめられました。



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